筑豊電気鉄道乗車記

数分間ほとんど人とすれ違わずに到着した筑豊直方駅、立派な高架駅ですが駅前にも人の姿はなし。


殺風景な階段を上って行きますと、


・・・意外にもほっこりとした空間が存在してまして、私の写真ではうまく伝わりませんが、屋根の日陰にはベンチがあって、7,8人の乗客が座って電車を待っています。何よりも線路とホームの段差がほとんど無いことから、皆さん線路際に座り込んでるみたいで、実際には暑くて大変なのですが、実にほのぼのとした光景なのです。

電車が来ます。この写真だけ見ると、背後の山を越えてきたみたい。

やって来た電車のアイスのあずきバーみたいな色は、西日本鉄道の旧塗装に違いない。これはいい電車に当たったぞ。ヘッドマークも付いていまして、「開業60周年、開業当時塗装色電車、旧西鉄電車カラー、マルーン&ベージュ」とのこと。60周年というのは意外にも新しく感じ、西鉄との関係もどうだったのかしっかり理解していませんでして、この鉄道については帰ったらお復習しないといけません。


光線は悪いですが、対向ホームのおかげで形式写真みたいのが撮れました。

車内の様子。のんびり外で写真を撮っていたおかげで、かぶりつき席は当然確保できず、仕方なく最後尾の座席に収まります。以下の車内からの写真はすべて後方(筑豊直方側)の景色になります。

15:41に出発です。すぐに高架が鉄橋になって遠賀川を渡ります。吊り掛けの音が素晴らしい。さて、このあずきバー電車は3000形の3005番。車内の製造プレートには「平成元年・アルナ工機」とありますが、足回りはバス窓の2000形からの流用で、2000形というのも元は西日本鉄道の1000形だそうで、Wikipediaでルーツを辿ると1961年生まれの電車になります。


とにかくこの路線は線路(路盤や架線柱など)が立派。駅さえ見なければ、ここを西鉄の特急車8000形が100km/h強で走っても全く違和感はないはず。たしかこの路線は福岡まで延伸する計画だったはず。もしもそれが篠栗線全通前に実現していたら、九州の鉄道事情は今と大きく違っていたことでしょう。


新幹線を潜ると楠木、ここで初めて対向する電車とすれ違いですが、路面電車のスタンダードになりつつあるリトルダンサーシリーズで来ました。併用軌道区間はもうありませんので、ホームをかさ上げして、普通の電車を走らせてもよさそうですが、一度にすべての車両を取り替えなくてはなりませんし、それ以前に車両限界や架線高さなど素人には見えない複雑な事情があるのでしょう。この駅を出ると小さな車両基地が見えます。現在乗車している3000型の他に、別色のリトルダンサーもいました。


筑前香月を出ると細かいアップダウンが多く、路面電車の走る専用軌道らしい光景で、先程の大型電車がビュンビュン走る雰囲気ではなくなってきます。希望が丘高校付近では「廃線跡」とメモを残しているのですが、どんな廃線跡が見えたのかは忘れてしまいました。おそらく国鉄香月線の廃線跡が見えたんでしょう。
後ろ向きだからか、この辺りから初乗車というのにウトウトしてしまいます。JR複々線区間のかぶりつきで集中力を使いきってしまったみたいです。


ここは西山駅で、峠にあるみたいな雰囲気の駅。

穴生あたりからは高架区間。この辺りはもうすっかり都市鉄道。
そろそろ黒崎で鹿児島本線が見えて来ます。ちょうどこの場所は鹿児島本線が筑豊本線をオーバークロスする所。

西黒崎の横には車庫があり、3連接車2000形の青いのと黄色いのが見えます。確か半年ほど前に引退したようなニュースを見ましたが、今にも走りだしそうな雰囲気です。


16:16、黒崎に到着です。駅員さんはいないようで、乗務員(運転手さん)がバスのように精算しますので、降りるのに時間がかかります。
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さて、今までよく解っていなかった筑豊電気鉄道について、意外にも浅い歴史と西鉄との関係中心に、自分のためにお復習して記載しておきます。
まずは戦前の時点で、北九州地区には一大軌道路線郡が存在していました。これが戦時中に統合されて西日本鉄道(以下は西鉄と略)北九州線となります。内訳は北九州本線(今の門司港付近~折尾)に、戸畑線、枝光線、北方線の3つの支線で、路線長は合わせて45kmぐらい。
1951年、黒崎から福岡までの鉄道建設を目指し、西鉄が100%出資する筑豊電気鉄道が設立されます。そして1956年に西鉄北九州線の4番目の支線のようなかたちで熊西から筑豊中間まで開通。1958年に木屋瀬、1959年に筑豊直方まで延伸し、現在の状態となります。ところがこの先は資金難により延びることなく、筑豊~福岡を結ぶ鉄道は、1968年の篠栗線全通により国鉄に先を越されてしまいます。直方から福岡までの免許は1971年に失効し、この鉄道は北九州の一つの地方鉄道で終わってしまうのです。また、筑豊電気鉄道は1976年まで車両を保有しておらず、すべて西鉄の乗り入れ車で運行されていました。
親会社の西鉄北九州線に話を戻します。路面電車が各都市で一気に廃止された時代には生き残れたものの、1970年代から製鉄所の事業縮小、そしてなんと国鉄電車の運転本数が増えたことから乗客は減り、路線はどんどん縮小されてゆきます。まずは1980年に北方線廃止(これは後にモノレールに生まれ変わる)。1985年に北九州本線の門司(今のJR門司港付近)~砂津(小倉付近)と戸畑線、枝光線が廃止。1992年に北九州本線の砂津~黒崎駅前が廃止、2000年に北九州本線の熊西から折尾も廃止され、現在の状態となります。
最後に西鉄北九州本線として残ったのは、黒崎駅前から熊西までの0.6kmのみ。この区間はこの時点で軌道から鉄道に変更され、筑豊電気鉄道が第2種鉄道事業者、西鉄が第3種鉄道事業者となります。2015年3月、西鉄の会社分割により第2種・第3種の関係を解消。すべての線路が筑豊電気鉄道のものとなって現在に至ります。
そうか・・・そうだったのか。知ってから乗れば直方駅や熊西駅周辺をもっと違う目で見れたのに惜しいことをしました。他に面白い点は、2016年3月まで全列車に車掌さんが乗務していた。3連接車の2000形は、1編成がまだ現役のようで、運が良ければラッシュ時に走るらしいです。
(乗車は2017年8月)
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